2008年01月05日

手塚治虫に対するいろいろな評価

全体的な評価
手塚治虫は、余りに後世への影響が大きく多面的であるため、評価がまだ定まっていないと言える。

日本文化史的観点からはこれまでの美術、音楽、文学などに匹敵するほどの巨大なジャンルとなった文化「漫画」を一代で築いたと言え、文化史的偉業を成したごく僅かな人間であるが、現時点でも漫画自体の評価がまだ高いとは言えず、また実際作品が手塚レベルの漫画家がわずかしかその後も出現しておらずそこまでの認識には一般的に至っていない。

作品自体が国民の少年から大人まで読める幅広いジャンルにわたり多くのヒット作、秀作を作り出しており一個人の人間から出現した芸術作品の量としては極めて大量かつ良質である。

手塚の出現前と現在の日本社会における漫画産業の多さ、読者の多さ、作品の幅の広さ、質の高さを見れば手塚は単なる作家ではなく千利休、観阿弥・世阿弥など日本史上の文化創業の偉人と十分に張り合い評価されるべきである。一方一部での高い手塚への評価を逆手に多くの漫画ファンが過大な漫画作品や漫画家の評価をしているが、実際に手塚レベルの人間の思想や心情を表現できている作家はほとんど居ない。

アニメーションは漫画に比べると創業者としての評価が主体で作品自体が完成の極みに至ったとは言い難い。のちの大友や宮崎が本人の意思を継いだかは別として文化史的には完成に導いたと言える。

日本の漫画の創業者であることの評価

開高健は、1964年に『マンガの神様手塚治虫』という文を発表しているが、開高健の時にはその呼称はあまり普及しなかった。手塚をマンガの神様と呼ぶのは、手塚の作品『がちゃぼい一代記』(1970年)の登場人物、マンガの神様にちなむ。この作品は雑誌掲載後しばらく日の目をみなかったが、1977年に単行本『紙の砦』に収録された。同年12月、久里洋二、犬塚進らが相次いで手塚を神様扱いする言及を行い、その後、手塚を指す呼称として普及した。

この作品中で、手塚は、マンガの神様が自身に乗り移ったという表現をしている。密度の濃い作品を40年以上の期間にわたって大量に残している点で余人の追従を許さず、これが「神様」と呼ばれる所以と見る向きもある。
手塚はこの呼称を好まなかったが、自作中の登場人物の名でもあるため、マンガの神様だと呼ばれても積極的に否定はしなかった(かわりに、自分がマンガの神様なのではなく、マンガの神様が自分に乗り移ったのだ、という意味の弁解を何度もしている)。

作品に対する評価

手塚自身は下記のような歪んだヒューマニズムをPTA的な評価として誤解を受けやすくまた本人もそれを嫌った。初期の少年少女ものから後期の「アドルフに告ぐ」や「陽だまりの樹」までの作品を見てみれば、ストーリーの簡単で分かりやすい作品から、非常に綿密な作品まであり、出現する人間たちは思想や心情に非常に富んだ多数の人間が出現している。例えばアドルフに告ぐでは大日本帝国、ナチスドイツ、在日外国人、特高警察などの人間が、それぞれの社会背景を持ちつつ、個人としての感情や思想をもち、それらのキャラクターが自然な形で言葉を語り激情しぶつかり合う姿が描かれている。この様なレベルまで人間を掘り下げてしかも自然に描いた漫画家は残念ながらほとんど居ない。現在でも大作と言われている漫画やアニメはほとんどは背景設定のみ複雑であり登場する人間は実に単純でステレオタイプである。ヒューマニズムと勘違いされる手塚の作品からにじみ出ているものは実際は人間のドラマでありそれは実際には人間の思想や価値観や心情の種類は無限にありそれらが複雑に絡み合って人間がドラマチックに生きていくことが描かれている。

ヒューマニズム作家としての評価

没後、マンガの神様という呼称が一人歩きし、神格化されるようになった。作品もヒューマニズムの側面ばかり強調されるようになり手塚に対する一面的な美化が行われた。実際には作品の中では非常に多くの思想や信条、感覚、心情を持つ人間が登場する。話の展開も決してヒューマニズムが主体ではなく、人間や社会への絶望感や厭世的な意識、虚無的な要素も濃厚に伺える。人間的にはヒューマニズムの塊のような人物ではなく、もっと人間臭い人、神経質な人だったと言われる。手塚自身、自らがヒューマニストと呼ばれることを極端に嫌っていた。インタビューでは「自分は、そのへんのニヒリスト以上の絶望を持って仕事をしている……はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と強い皮肉を込めて断言している。

多作であったことへの評価

多作のため作品の出来ばえに少々むらがあるが、密度の濃い作品を40年以上の期間にわたって大量に残している点で余人の追従を許ない。現代の漫画家の多くは、原案、ストーリー展開、作画作業など、多くの部分を自己が抱えるスタッフや雑誌編集者と共同で行っている。手塚の場合、作画などはプロダクション形式で行っていたが、アイデアやストーリーはほとんど自分一人で練り上げていたらしい。手塚の作品ほどのストーリー性の濃い漫画を、月産100ページ超も生み出す漫画家は現在ほとんどいないと言われる。実際に多くの漫画家はアイデアを出すことに多くの時間を費やし、ネームを作るのに精神的な重圧を感じるほど苦しむ。しかし、手塚はある中堅漫画家との会話で「ネームを描くのに苦労して…」と言われると「え? なんで?」と返したというエピソードがあるほど発想に満ち溢れた人間だった。しかし、手塚治虫といえども編集者から度々ネームの修正依頼が掛かり、苦心もしていたようだ。

国家からの評価

現時点では勲三等瑞宝章叙勲に留まっている。亡くなった後に、麻生太郎から国民栄誉賞の推薦があったが、「漫画家授与の前例がない」などの理由で授与は見送られてしまった(冨樫義博も『幽☆遊☆白書』単行本の袖で「そんな事をしたら“辞退させてくれ”と彼が化けて出るだろう」と述べている)。後に漫画家としての国民栄誉賞受賞は1992年に「サザエさん」で知られる長谷川町子への授与によって前例ができることとなる。

歿後の再刊行

2003年から約2年ほど彼の作品だけを集めた雑誌「手塚治虫マガジン」がKKベストセラーズから刊行されたこともあるが、部数の関係上、無期限の休刊となった。後にこの手塚治虫マガジンプロジェクトは2007年になり、「自分が編集長」となって数ある手塚作品の中から自選した作品を収録できるという非常に珍しい試みを採って「手塚治虫O(オンデマンド)マガジン」として復活することとなる。
余談だが、藤子・F・不二雄作のドラえもんのある話[3]では「一人だけの漫画雑誌なんて聞いた事も無い」と言った発言が載っていたことがある。
posted by abelu at 17:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 手塚治虫 シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/76250268

この記事へのトラックバック

負けても勝ち組w
Excerpt: てぃん★てぃんシゴきまくってもらって5諭吉くれるってどんだけww パチ屋行く前の軍資金集めの定番になってしまったw
Weblog: ドンパッチ
Tracked: 2008-02-16 15:56

TOP記事へ

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。